星崎レンスターズ [神慮の機械外郭]

サークル「神慮の機械」装丁人兼雑文係・10年来の同人二次小説屋の星崎連維が共和国の下僕として作品や同人話をしてます。なかみはようかん。

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【再上映記念】ウマも競馬もミリしらのオタクが観た「劇場版ウマ娘」が最高だった話(長文)

オタクって生き物はよく言うんですよ。

「この作品は劇場版だけ見ても面白い」って。

正直エエーほんとにござるかぁ?って思うモノも多いし、実際問題として作品を知らないけど劇場版だけ見に行く人自体がレアだったりしてなかなか実証できない代物でもあります。

しかも今回挑む「新時代の扉」こと劇場版ウマ娘って存在は二重にミリしら条件が存在するわけです。

  1. ウマ娘は知らないけど競馬はそれなりに知ってる
  2. そもそも競馬自体知らずウマ娘も知らない

1番のように「ウマ娘は知らないけど競馬好きなら楽しめる」ってパターンは割と想像できます(※競馬好きだからこそウマが苦手って方がいるのも知ってます為念)。しかしこの2番、言うなれば真のミリしらが観てどうなのか? でもそんな奴いるのか?

ここにいるぞ! 真のミリしらたる我が!!!

ということで今回、ウマも馬も好きな友人に誘われウマも馬も知らないこのワタクシが前情報・下調べ一切なし・予告編すら観てないぞの完全ぶっつけ本番で劇場版ウマ娘を観てまいりました。

結論から言うと表題にもあるようにミリしらでも控えめに言って最高、全方位に手抜きの無い末端まで神経が行き届いた一作、個人的には2024年のベスト映画、アニメ史に残すべき一本に数えられる作品でした。いやーここまでとは本当に嬉しい想定外!

※本稿は2024年6月の初見時に映画のあまりの見事さの衝撃と勢いで4500文字書いたのにオチをつけられず未公開になっていたものを10/18再上映記念で書き加えたものです。とはいえ感想の大部分は執筆当時のものにて。また初見に加え2回観てセルフ補完した部分も含みます。

観賞前の我のウマ馬ミリしら度

ウマ娘について知ってること:

  • いわゆる女体化ゲー(よくあるやつ)
  • 耳ついてたっけ?
  • 名前と顔が一致どころか名前を憶えてるキャラが一人もいない
  • こいつらうまぴょいしたんだ!(←わかってない)

競馬について知ってること:

  • 馬がレースする
  • ギャンブル。なんか1位当てるだけじゃないらしい。難しい
  • 馬名、レース名、その他一切何も知らない
  • ロイヤルアスコットではトップハットの着用が求められる
キングスマン、それは信頼できる情報源

以上です。文字通り「ダービーって何? 馬のレースは全部ダービーじゃないのかねオービー君」とかゲーム機全部ファミコンなオカン認識で劇場版に臨んだのが我です。はてさて。

で、観たら椅子から転げ落ちた

初見直後の感想がこれです。

  • 控えめに言ってめちゃくちゃ面白かったじゃねえか!
  • 走る、前に出るという原始的な構図は肉体言語がそのまま物語になる「ズルさ」がある(ボクシング等でも感じるヤツ)
  • 何か素敵な先輩が突然えっちなお姉さんになって帰ってきてしばらく話が頭に入らず(大好きです)


まず何より、競馬というか「レース」という極めてシンプルで原始的な競技を軸とした物語の強さがウマ馬ミリしらだろうが何だろうがストレートに叩き込まれてくるんで、これはむしろ楽しめない要素が無いとすら言えます。

この辺、自分はよく「肉体言語」って言葉を使います。わかりやすい例は格闘モノで、痛みを与える、受ける、地に倒れる、立ち上がるなど、格闘の要素でありつつ人間ドラマの直接的な表現が成立する形の物語の分かりやすさと強さのことを指します。

で、考えてみればレースもまた究極の肉体言語の物語なわけですよ。何かに向かって走る、背中を見る、追いかける、隣を走る、追いつく、追いつけない、追いていかれる──その全てがキャラたちの超克や関係性の物語そのものの表現になってる強さ。これはたとえ競馬の細かい知識が無くても「理解らせ」そのものですわ!

しかもこの劇場版ウマ娘、そのレースという肉体言語ドラマを支える演出、構成、キャラデザ、演技、そして初見者への細やかな配慮に到るまで全てがトップレベル。なんというか全方位に手抜かりがないんです。アニメとして、映画として上手すぎるんですよ……!

そもそもつかみが完璧

2024年7月当時期間限定で冒頭映像が公開されてましたが、改めて観てもまずこの開幕フジキセキのレースとジャングルポケットの邂逅シーンがつかみとして完璧なんですわ。

駆け抜けてゆく地響き、湧き上がる歓声、勝負を決めるのは「踏み出す一歩」、そうして巻き起こした衝撃波がポッケの「夢」を揺らして──競馬全然知らなくてもウマ娘ミリしらでも問答無用で叩き込まれてくるレースという肉体言語による夢の伝播。その演出表現はこうして動画で改めて観ても完璧としか言いようがないんです。



さりげなく上手い映写機導入

冒頭、映写機のパートはウマ娘という作品の一種のお約束説明なのかもしれません。でもここで「彼女たちは走り続ける」というグランドテーマを「競馬モチーフなんだから当たり前だろ」と流さずに印象づけてるのが後から効いてきます。あと映画という存在の歴史が走る馬の連続写真から始まったことを知ってると「おっ、この演出はシャレてやがんな?」と謎の上から目線で感心させたりするの何気に上手かったり。

レース幕開けの表現でいきなり「理解らせ」られる

さてウマ娘を知らない身としてはレース表現はどんなもんかな、人型なのにゲートに入るしヨーイドンポーズなのちょっと面白いなフフッ、などと腕組み舐めプみたいな構えをキメている間にレーススタート。

……えっ?と派手な煽り曲もなく響いてくるアコギの抑制された旋律("Twinkle Miracle")に一瞬戸惑っていると、そこを駆け抜けてゆく地響きと歓声。それをすぐにまだ場外にいるポッケの視点に切り替えて「まだ遠い別世界の出来事」として描く。やがて階段を上がったポッケの目を不意に焼く光、交差するフジキセキの横顔、途端に開ける広い広い世界──

ああ、これは夢の始まり、新しい世界との出会いと追憶のシーンなんだ!と一瞬で理解できるこの作りがもう既にスゴい。

そして彼女たちが走る。「走り、追い抜き、前に出て、誰よりも早くゴールする」。仕組みやルールを何も知らなくても理解できるレースというプリミティブな勝負の表現が流石に上手い! この辺りは競馬中継という歴史的蓄積のある映像表現も生きてるのかもしれないですが、アングルの切り替えの妙、FPS/TPSカメラのダイナミックさ、そのアニメへの落とし込み方で一気に引き込まれるわけです。

ミリしらに大変ありがたい「中山の直線は短いぞ!」

この辺の実況、もしかしたらリアルっぽさで雰囲気を出すための演出なのかもしれません。

とは言え、自分のように競馬とかミリしらでレース展開の基本も競馬場の環境も知らない身でも、この短い一言があるだけで今レースはこういう段階にあってここから勝負どころが来ますって補助線を引いてもらえるんですよ。これだけで物語自体への理解が全然違ってくる。このさりげない実況その他による状況説明は最後まで続くので明らかに意識的なモノだと思いますし、ミリしらが最後まで楽しめた理由の一つは確実にコレです。些細なことだけど「制作の神経が端々まで行き届いてる」と感じましたねー。

踏み出す一歩、大地の響き、レースという本質

この映画、初見の自分に最強に印象に残ったのが決めどころの「踏み出す一歩」

この初回レースに限らず、彼女たちが勝負を決めに行くシーンでは縮地の如く「勝負を決めに行く一歩目とその加速」の表現が本作はめちゃくちゃ強いんです。ここではフジさんがズシリとその一歩目を決めると光があふれ、鳴らされた地響きがポッケのあの謎クリスタル≒夢を揺らして舞い上げ──

からの、王道レース展開の最後の引き離しのド迫力たるや!

自分はこの初見上映をTOHOの轟音上映で観たのですがこれは大正解。彼女たちが「走る」という本能的な激情を叩きつける地響きが物理現象として自分の膝を震わせるのはもう堪えがたい興奮ですよ! ここまで「音の振動」の良さを感じたのはノーランの「ダンケルク」のドッグファイトシーン以来かもしれません(真顔)。

場内を揺らし続ける地響き、後ろへと流れゆくコースライン、そして何より爽やかに笑うフジさんと二番手メガネの必死の形相のコントラスト。実は「踏み出す一歩」と並んで初見で思い切り印象に残ったのはこの二番手メガネの絶望の顔なんです(名前知らなくてごめんね)。

レースを描くということは。
勝利する者を正面から捉えるということは。
その後ろの敗者たちの形相を全て克明に見せるということ。

どのレースもほぼこの「2番手以下のツラ」を正面から捉える構図があった気がします。ワザマエ!

この劇場版ウマ娘は「それ」を描いてくる作品なのだと、初手から理解できるんです。

……プリティダービーだ? プリティでも何でもなくね? 超熱血の物語じゃねこれ?

ポッケの夢の一歩目を描く演出の見事さ

ここまでのシーンとカットの使い方自体が恐ろしく技巧的なんですが、このフジさんのレース後のポッケの描き方がこれまた最高で。

レースを眺め終えたポッケがその場から一歩も動けず呆けたまま、瞬きの間に時間が過ぎるってのを直接的にマッチカット(全然違うシーンだけど同一構図・同一モーションで繋ぐヤツ)で見せてまたも「おっ、また技巧的な演出キメてきたな」とニヤリとしたかと思うや否や──

夢の跡とでもいうべき夕暮れ時の静けさの中であの謎クリスタル(多分夢の象徴)を煌めく太陽の残光の中に投げ上げた直後、それを追いかけ出す瞬間のポッケもまた同じ「踏み出す一歩」をキメて走り出し、舞い上がるんですよ。

このポッケが謎クリスタルを掴む大ジャンプの一歩目がたった今観たフジさんの「踏み出す一歩」そのもの。あとさりげなくウマ娘の身体能力を提示してる辺りも手法として初見者には嬉しい

OK理解、これは彼女、ジャングルポケットの物語なんだな──

と理解した直後に高らかに鳴り響くファンファーレ。
タイトルロゴ「新時代の扉」ドドーン。
……からの主題歌の歌い出しがたった今見たグランドテーマそのものの

「走って! 走って! 憧れを越えて!」

オタクのツボとしか言いようがないこの導入で腹を上に向けてターフに沈んだ

完璧じゃんこの導入……!!!!!!!!!!!

もうこの辺で「ミリしらで観に来た」「ふーん、随分稼いでるソッシャゲらしいけど見せてもらおうじゃん」みたいな感情は完全にゲートに置いてきてましたね。座席でのけぞって泡噴きながらOP歌眺めてました。もう勝ったも同然だよキミら……。


演出もすげえがデザインもクッソ良い

限定公開済みの冒頭シーンを語るだけで3000文字使ってしまって書いてる側がビビってます。琴線に触れた場面全部書いてるとキリがないので初見の衝動に絞り込んで参りましょう。

冷静に考えてキャラデザが全員強すぎる(蓮ノ空構文)

まず何よりポッケちゃんカッコ可愛いです(真顔)
なおこちらは「ポ゛ッ゛ケ゛ち゛ゃ゛ん゛か゛っ゛こ゛か゛わ゛い゛い゛で゛す゛」と読みます。

栗毛、ウェービー、金色の瞳、小柄、平坦(何)、オレっ娘。全てが完璧

……えっと。この映画、構成や演出といった部分もほぼ完璧に良かったんですが、そこをがっつり支えているのが華やかで高品質のキャラデザが支える「画の華やかさ」です。ていうか

「登場ウマ娘、全員キャラデザがめちゃくちゃ良い。流石カネがあるコンテンツ」

がガチで最初の感想でした。

まぁジャングルポッケが個人的な好みのツボを刺しまくってるのは事実なんですが(HAHAHA)、にしても主要キャラに留まらずおそらくゲーム側で登場済みであろう周辺キャラや今回限りのモブ扱いの子たちまで可愛いだけじゃなくキチンと個性が立ってて目が飽きないんですよ。

デザインがキャラ設定や物語と直結している強さ

例えばポッケ以外だと個人的に目を引いたのはダンツフレーム。もちろん後のドラマによる部分も大きいですが、オタクであればあのキャラデザの時点で良い意味での勝てないヒロイン、されど非才を努力で食い下がる存在だってのがビシっと伝わってくるんです。簡単に言いますけどこれをあらゆるキャラで作り込んでるのマジすごい。

語弊がありますけどダンツの「根性を見せる負けヒロイン」の風格最高なんですよ……

フジさんが黒髪に澄んだ青眼ってのもホントいいですね、どこか硬い傷を持った優しい先輩感、優しいだけではなくその浄眼で時折何か違う世界(≒叶わなかった何か)を見ている感じがばっちり伝わってきます。
(なので終盤突然えっちなお姉さんになって表れた時にはしばらく話が頭に入ってきませんでしたが……後で聞いたらタキオン声優のすみぺも同じこと言ってたそうで噴きましたねw)

あと「勝負服」って概念は神

本編開幕早々いきなりポッケちゃんのちょっとえっちな胸元とカッコ可愛さが一目でわかるデザインが提示されたかと思えば、横に並び歩くはキャラ性を一発で理解させるタキオンの白衣服。いやいやこれはちょっとコテコテマッドサイエンティストやりすぎじゃね?と半笑いになった直後の戦闘機が雲を引くが如く翻る白布で笑いが消えてアゴが落ちる。改めて振り返ると作中最も「速さ」という根源の一つを極めた彼女が「最も後方にたなびくデザインの勝負服」をまとってるの、キャラ設計・物語・デザインが完璧に噛み合ってる証と言えます。

改めて公式キャラPV見ると明らかにヴェイパーコーンみたいなの出てますね。演出ヨシ!

また後に最終レースで登場する覇王・テイエムオペラオーが序盤で顔見世しますが、彼女の勝負服を見た瞬間に「なるほど『格』が衣装で体現されんのかこの作品は!」ってなる分かりやすさもマジ良かったですね。こういう分かりやすいのに過剰じゃないキャラデザ攻めのラインはホント唸りました。カネがあるコンテンツだ!!!

加えてミリしら的には勝負服のブーツがチャリチャリと金属音を立てるのも最高に股間に来ました。恐らく馬の蹄鉄の表現なのだと思いますが、個人的な印象はそれ以上に甲冑≒戦闘服をまとった騎士が歩く時に鳴る鎧の響き。彼女たちが武者であり騎士である、と端的に示す表現でこれまた唸ってしまいます。

と同時に、本作は学園物の側面も持つためそんな勝負服をキメた可愛い子たちの制服やトレーニングウェアという一種のギャップも味わえ二度三度美味しい。こいつは個々のデザイン以上に多様な服を出せる設計の巧さってヤツですな!

レースという肉体言語を巡るドラマ

「──忘れない。忘れやしねえ。一瞬で駆け抜けたその横顔に、一目で憧れた。芝を揺らし天高く届く地響きに、心奪われた。ああ、この憧れと衝動だったら、たとえ足を折ったその先でも何度でも思い出せる」

(作中にもこんな台詞はなく単なる我がイメージした創作です)


……そんなFate UBWみたいな一節が浮かぶフジキセキ→ジャングルポケットに伝わった衝動と夢の物語、そして最後には同じ衝動の継承をなぞるアグネスタキオンの物語。このリフレイン、円環構造がもう本当に上手かったんですよ。

冒頭で書いた通り私は競馬もウマ娘もミリしら
競走馬に同年同期の概念があることも、レースに年齢制限を掛けることで一種のシーズン制のようなものがあることも、ゆえに特定のレースに一回性の勝負の意味があることも全部知らないまま初見の映画を見通しました

でも。彼女たちの物語は、何の問題も無くこっちの側頭部をぶん殴っていきました。

「勝ち逃げ」をキメたタキオンと、その鮮烈な敗北にずっと頭を抑えつけられ続けるポッケの構図。勝てども勝てども振り払えないポッケの敗北感と、ポッケとダンツの競い合う姿を見て以来「理論の上では勝った」はずのタキオンの内で燻り続ける火。この辺りは前提知識の要らない普遍的な物語でありつつ、一つ一つのカットが丁寧で実に素直に胸を打ちます。

ポッケが所属するタナベとフジさんのトレーナージム(?)が明らかにあしたのジョーオマージュなのも素直に良く、フジさんの「叶わなかった夢を託してしまう」心境がスッと心に入ってきます。(これは終盤、フジさんが得たのは「他人に任せてしまった夢」などではないって構造がまた上手いんですが後述!)

また全体を通じて演出も台詞回しもホント完璧なんですよ。タキオンにただ一人「才能」って言葉を向けてるのが己の凡才を嘆くダンツだったりとか実によく設計されてる。ポッケが己に囚われ始めると「練習ジョギングでも先頭を行かなくなってる」辺りの表現とか、とにかく暗喩を教科書的とすら呼べるほどに全ての画に仕込んでいて無駄なカットが一つもない。本作が「アニメ作品として歴史に残る一本」だと感じた所以です。

この辺、時系列で書くと本当にキリがないので印象ポイントに絞って列記しますと……

えっちなお姉さん・フジさんの真価

いきなりアレな見出しですが、心折れたポッケの前に再び勝負服をまとって現れたフジキセキ、あれは彼女が乳出し勝負服で現れたその衝撃を抑えて物語としてみると映画開幕時のレースで見たフジさんの横顔のリフレインなんですね。

本作は肉体言語の物語。いみじくもタナベトレーナーが語ったように、共に走らなければ分からない何かが確かに存在する世界です。

彼女たちの肉体言語は映画「マトリックス・リローデッド」のセラフの台詞を思い出させる

ここでポッケとフジさんが共に走ることで、あの日、己の視界を一瞬で横切ったフジさんの最高の横顔をポッケは再び目にするわけです。しかしあの日と違うのは、彼女は同じ芝の上で、同じ「レース」の上でその横顔を捉えたということ。

あの夢の衝動を、きっと彼女が決して忘れることのない己の始まりの瞬間の熱量を今、あの日のように再び己が足で駆け抜けているフジさんの真横でもう一度受け取って──

泣いちゃうだろこんなの!!!!!!!!

しかも何が美しいって、フジさんがその再び自らの足で駆け出す情熱を見い出したのもまたポッケ(とダンツ)のあのダービーの勝負であり、勝利であったということ。ポッケは決してフジさんの叶わなかった夢を代わりに叶えたのではなく、その夢に再び火を灯したのです。芝から空へと昇る衝動は次の衝動へと伝播し、発火した情熱は再びその起源へと還る──美しいまでの円環構造です。

しかもそのフジさんを焚きつけたポッケの閃光は、同時に「もう夢を叶えて上がった」はずのタキオンにも着火していたのが強いんですよ。この一つの構造で同時に二人を描く、二人の円環構造がいつしか三人となるやり方が本作は実にワザマエなんですわ。

ポッケとタキオンを巡る表現の見事さ

どのシーンにも意味があり、どのカットの画にも暗喩がある──そんな本作の中でも個人的に一番刺さった表現は、意外かもしれませんがフジさんとのレースで己の「衝動」を取り戻したポッケがタキオンに並走を頼みに行くシーンなんです。

荒れ果てたタキオンの研究室。そして窓枠につるされたタキオン自身の謎クリスタルを通した光が、その黄昏色の部屋の中に散乱している──

これ、ポッケたちを通じて叶えればよかったはずの己の夢の『欠片』が残光として彼女の『勝利』を生んだはずの研究室の中を舞っている、そんな象徴的なシーンなんですね。何度も示唆されているようにあのクリスタルは夢や情熱の象徴。しかしタキオンのソレは既に彼女の手を離れ、部屋の外に所在なさげに宙づりになったまま。そのプリズムの光だけが部屋の中に残り、散り、そして彼女自身の手によってカーテンは閉じられ光は消える。

そこにあるのは「選んだ道の虚しさ」であると同時に、夢の欠片は、輝きは、まだそこに残ってもいるのだと伝えてくるんです。

ここ、重ねて描いてきたあのクリスタルを使った最高の表現だと思ってます。静かで、穏やかだけど、灰の中の埋め火のような熱量が隠されているワンシーンでした。

──そして迎えるラストのジャパンカップ。

大一番なのにそのBGMの入りは実に抑制された旋律("The Japan Cup")。この展開は思い切り映画冒頭のフジさんのレースの入り("Twinkle Miracle")のリフレイン、追憶から「今」に繋がる円環構造を感じさせてくれます。「あの日見た夢の始まり」から、「その夢が一つの答えにたどり着くところ」。この時点でちょっと涙で前が見えない状態です。ヤバい。

オペラオーの「設定上のラスボス」が示す「真の敵」の在り処

ここで登場するテイエムオペラオー。

実のところ、ミリしら勢にとって彼女はぶっちゃけ設定上のラスボスに過ぎません。本作中ではオペラオーに思い入れを持つほどの物語は描かれてませんし、良くも悪くも分かりやすく用意された強敵という感覚を受けます。

己の覇道の糧となることを誇りたまえという彼女の姿はその実、「私が」「勝つ」と叫ぶ全てのウマ娘のスタンスそのものでもある。ただその在り方の極北に彼女が今在るに過ぎない

でも、本作の締めはそれでいいんですね。

ここまであれほどレースという肉体言語をもって「追いかけ、追いつき、隣を走り、追いつけない」という「オレとアイツ」の物語を描いてきた果てに、

「走るとは最後の最後では一人であり、勝ちに行く相手は己自身」

という、走るという本能的な行為の原点の原点にポッケが「覚醒」するのですから。

ここで本当に上手いのが、ここにきてポッケのみならずレース参戦者の全員がひたすらに連呼するのがただ一つ「私が」「勝つ!」のみということ。そこに「アイツ」はなく、ただ「我(オレ)」があるのみ──それは他ならぬオペラオーが宣言した精神そのものに他ならないわけです。

オペラオーは倒すべき「アイツ」としてではなく、あの場に挑んだ者が到った境地、現時点でその極北に在る存在、一種の象徴、そしてポッケが至るべき姿として描かれてるんです。テイエムオペラオーの覇道の物語はあくまでオペラオーのものであり、今ポッケの──否、あの場に挑んだ全てのウマ娘にとって、彼女の物語は良い意味で不要なんですね。そこにはただ「我」があるに過ぎないのですから。

「オレが最強」。ポッケが最初から繰り返していた言葉に、最初から答えはあった

レースを描くということは。
勝利する者の視界を映すということは。
その眼前に何者もいないただ己だけの世界を見せるということ。

映画開幕で感じた「二位以下≒全ての敗者の形相を見せること」の真逆の演出がここで炸裂し、物語が鏡合わせのように完成するのです。ストーリーテリングが上手過ぎる!!!!!

と同時に、最初のレースから見せていた「芝を揺らす彼女たちの地響き=情熱が観覧席の天辺まで届く」あの演出がこの最後のレースで届く先は──アグネスタキオン。これがまた見事なんですよ。

作中において何者の後塵も拝さなかったタキオンがここで初めて、そしてたった一度だけ、遠ざかる誰かの背中に向けてこぼした「……待ってくれ」という言葉。

越えるべき勝者の不在に苦しみ抜いたポッケが今、何者の不在をも意に介さずただ己の勝利のみへと疾走する横顔を見せて宣言する「──先に行くぜ」

それこそが、ポッケが高らかにタキオンの「前に」出た瞬間であり。
それこそが、タキオンがポッケの「後塵」を拝した瞬間であり。

あの日駆け抜けるフジさんの横顔がポッケの夢を燃え上がらせたように、この日駆け抜けるポッケの横顔が、背中が、あの芝を揺らして天まで届いた情熱の地響きが、タキオンの夢の欠片を再び灼いて発火点に至らしめた瞬間だったわけです。

映画「マトリックス」より。たとえ己の運命を知ろうが、誰かの未来を知ろうが、そこを己の脚で歩んで初めて意味がある──物語のテーマとしても大好きなんです

故に彼女たちは駆け出し、雄叫びを上げ、そして駆け続ける。
ポッケは己自身を越える勝利に向かって。
タキオンは再び己自身の脚で手に入れる勝利に向かって。

ああ、何と見事なリフレイン、物語が冒頭に還る円環構造。

ポッケがたどり着く様は当然としても、まさかここで行く先も考えずに全力で駆け出してゆくタキオンの姿で号泣させられると思ってませんでした……。互いに違う方向を向いていてなお、二人の物語が同じ「走る」という様で未来へと広がってゆく。

……思い起こせば、映画の最初の最初に私たちは言われてたじゃあないですか。

「彼女たちは走り続ける」、と。

彼女たちは、走り続ける。ポッケも、タキオンも、フジさんも。ただの競走馬モチーフなキャッチフレーズのようにも聞こえていた言葉が、真のグランドテーマとしてこの大サビで叩きつけられてくるわけです。こんなの物語的快楽以外の何物でもないですよ……!

というわけで、最後までレースという肉体言語で「一周を巡ってくる」表現をやり抜いて完遂されたこの物語。考え抜かれた脚本と構成の前にミリしらなどという受け手の都合は何一つ問題になりませんでした。もちろん原作や史実側を知っていれば更なる思い入れが発生するのだとは思いますが、もう物語のアーキタイプとして純粋に強すぎですわコレ。

エンドロール:うまぴょい……した……?

再び己の夢と衝動を取り戻したジャングルポケット。
再び己の脚でたどり着く領域を目指すアグネスタキオン。
対等に勝利を追い求める道を諦めなかったダンツフレーム。
同じく「その先」を目指す意地を見せたマンハッタンカフェ。

ラスト、四人が先の見えない光の中へと歩み出てゆくシーンを見て。ああ、ここから「その勝敗はまだ誰にも分からない、彼女たちの未来のレース」が始まるんだ。なんて美しい物語の終わり──とか思ってたら。

なんかステージ始まって踊り出してるんですけど!!!!?????
俺が今まで見ていたレースの肉体言語は!!!!!!!???????

これこそマジのミリしらでこの展開は全然知らなかったので、気分はまさに目の前で突然ラーメン食ってる拳法ハゲがババーンな画像略でしたねw

や、どうやらこのようなメディア化のストーリー部分では史実の先は描かないことになってるらしいと後から友人から聞きましたが。でもここはレースに飛び出していく瞬間ぐらいまでは描いて欲しかったなーと正直思ったのでした。HAHAHA。結局ミリしらが本作の「お約束」でちょっと笑ってしまったのは

  • 冒頭のゲート内でかけっこヨーイドンポーズなこと(すぐ慣れた)
  • ダンツが曳いてた「日本に3台しかないコマツの超大型重機用タイヤかな?」
  • 唐突のうまぴょい

ぐらいでしたねw 全然おっけー!!!


結論──ウマ娘の勝利

以上、10,000字にわたってお届けしてきたウマも競馬もミリしらのオタクが観た「劇場版ウマ娘」が最高だった話でした。

途中からミリしらまったく関係なかったですよね!!!???

最後に改めてまとめ

  • 走る、前に出る、レースという原始的ゆえに直球の肉体言語で描かれる物語はウマや競馬を知らずとも刺さる強さがある
  • しかしそれはただ安直にレースをモチーフにしたから得られるものではなく、フジ→ポッケ→タキオンと伝播した衝動の継承など、その肉体言語が持つ特性を完全に把握したうえで練り上げられた脚本・構成のおかげ
  • 良質の物語をデザイン面で完全に支える、表現の柱にすらなっているキャラデザの上手さがとにかく絵面の気持ちよさと物語理解の深さを提供している
  • 競馬やウマ娘の知識が無くても理解に補助線を引いてくれるレース展開の表現、細やかな解説アナウンスなど、必要十分にして一切手を抜かない「視聴者に理解させようとする意思」もまたとにかく気持ちよい
  • その物語とキャラクター、場面場面の感情を、全てのカットに意味があるとすら言える徹底した画作りによって描き出しているアニメーションとしてのレベルの高さは本年最高峰、どころかアニメ史に残していいレベル
  • うまぴょいのこと完全に理解した(してない)
  • ポッケちゃん……好きになっちゃうじゃん……
  • えっちなお姉さん……好きになっちゃうじゃん……
  • タキポケ……なるほどそういうのもあるのか……(沼の予感)

また冒頭でも書きましたが、本作は映画館で、それも轟音上映で観たのが本当に大正解でしたね。レース表現を堪能するにはやはり大画面が欲しくなりますし、なにより「彼女たちが本能を叩きつける情熱と衝動の象徴たる芝の地響き」物理で味わえるのは何物にも替えがたい興奮でした。これこそが何となく本作を劇場化したのではなく、劇場で魅せるための音作りをしてくれた証だと思うのです。

ミリしらに起きたその後

  • とりあえずもちろんもう一度見に行った。開幕からガン泣きした
  • サントラ速攻買った。"Twinkle Miracle"流れるだけで鼻の奥がツンとする
  • ポッケ声優の藤本侑里さんがメインキャラ本作初と知って椅子から転げ落ちた(本作みたいな「叫ぶ演技」がキチンとできる方は上手い証なので……)
  • 当時出てたポッケちゃんグッズがちょっと大阪のオバちゃんみたいな虎柄ばかりで少し凹んだ(告白)
  • ROAD TO THE TOP観た。なるほど確かに劇場版は「ならでは」の圧倒的品質があったけどこちらも根源的なテーマと描き方はがっつり通じてるんすね。肉体言語!
  • げ、ゲームは……その……継承育成モノはちょっとしんどいので……(元シャニPより)
  • タキポケ……

以上、7月に書き始めたのに夏コミや諸々があってずっと塩漬けになってしまっていた本記事、10月の再上映記念でようやくの公開となりました。……塩漬け時点で4500字だったのに1万字になったけどな!!!

あとその再上映完全に見逃してたからもう一度頼むぞ!!!!!

※どうやらもう一度再上映されそうです。今度こそ見るぜ……!

www.dreampass.jp




※記事中の作中画像は全て公式動画を使用しています。https://movie-umamusume.jp/movie/

【蓮ノ空舞台巡礼】加賀友禅こらぼ・吉祥瑠璃文に見た「愛と解像度の凄み」

2024年4月。蓮ノ空の「加賀友禅こらぼ」を追って金沢の地で出会った衣装デザインに単なる新規イラスト以上の大きな衝撃と感動を得たので旅の記録と共にここに記します。

特に今回の加賀友禅衣装はイラスト画像やグッズ等の解像度で見るだけでは味わい切れない、現地の大型スタンディや加賀友禅会館でのデザイン原画を拝むことで初めて堪能し切れるものではないかと思わされました。

一人でも多くの方が実際に金沢と加賀友禅会館を訪れてこの体験を共有できますよう。

www.lovelive-anime.jp


※こちらはnote側に書いたものと同一内容です
note.com

「言うてコラボって絵柄増えるだけでしょ」

ところで蓮ノ空のこと好き好きクラブのみなさん、今回の加賀友禅に限らず「コラボ」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

グッズの絵柄が1つ増えるのでアクスタや缶バッチを買いに行く。

結局のところ言ってしまえばコラボテーマに沿った可愛いイラストが1人1枚増える、各キャラに似合った特徴がありながら統一性もあって並べると映えて嬉しい、またグッズに使う出費が増える、大行列で即完売させるぐらいなら受注生産して、そんな繰り返される定番イベントの一つという程度の認識ではないでしょうか?

私自身、当初今回の加賀友禅こらぼも率直に言えばそれぐらいの認識でした。蓮ノ空歌留多カードとして先行して実装された時もその絵柄と添えられた俳句やで金沢の伝統と蓮ノ空を結びつける素敵なデザインだなとは思ったものの、特にそれ以上の思い入れはなかった記憶があります。

蓮ノ空歌留多シリーズはまず新年の俳句の方に意識が行った方も多いのでは

今振り返ればウカツにも程があります。この歌留多シリーズの特訓前イラストが全て金沢に実在する場所を描いたものであったことの意味が、後に現地訪問をしてありありと立ち上がってきたのです。

また私は蓮ノ空に出会う以前より金沢は好きな土地で何度か訪れておりその歴史や文化にも思い入れがある方だと思うのですが、とは言え当方着物を着る機会が女性以上に少ない男性なこともあり、加賀友禅に興味があったかと言われればNoと言わざるを得ません。今回蓮ノ空をきっかけに触れられる方の多くも似たようなものではないでしょうか。

一路金沢へ、そして花帆から受ける最初の衝撃

とは言え、加賀友禅こらぼは久しぶりのスタンプラリー。前回が灼熱35℃の異常気象な盛夏のど真ん中で正直のんびり散策どころではなかったこともあり(金沢城公園を西日の当たる鼠多門側から上がって行こうとしたら死を感じて一度撤退したほどw)季節のよい春の開催は素直にありがたく、また年初にコラボ延期にもなった能登半島地震以後、お世話になった金沢の地、ひいては能登に少しでもお金を落とせる機会を探してもいたので渡りに船と訪問を決めたのです。

加えてSNSでもすでに「デザイナーさんのコンセプト説明がすごい(特に綴理)」という話が流れており、自分の中でも期待は十分に高まっていました。

小松以遠開通後初。終点じゃないのでうっかり乗り過ごさないように


さてご存じの通り、金沢を巡礼する蓮の(中略)みなさんは金沢駅に降り立ったらまず蓮の民にとって乳と蜜が流れる約束の地、金沢フォーラスは蓮ノ空タイアップショップ改め金沢ゲーマーズに真っ先に訪れるのが通例となっております。駅から近いですしね。そういえば一周年おめでとうございます。時の経つのが早く感じられる蓮ノ空の象徴の一つでもありますね!


金沢ゲーマーズの充実した蓮ノ空アイテム先行販売ラインナップに圧倒されつつ、ここに比べれば本来錚々たる秋葉・お台場・原宿もカスや(関東在住民調べ)などと両手を合わせながら買い物に勤しむ他、今回の加賀友禅こらぼスタンプラリーの起点もまたこの場所。自分もまずはスタンプラリー台紙を受け取り、花帆ちゃんのスタンディを拝みに来たわけです。

で。正面入り口に設置されたこの振り袖姿の花帆が目に入った時、あれ?と違和感を覚えて、そして気づいたんですよ。

「ぜ──」「ぜ?」「ぜ・ん・ぜ・ん、ちがーーーーう!!!」

着物であるが故に等身大に近いことには意味がある

もちろんいい意味で、です。

今回の衣装に限らず、ディテールが多い衣装はゲーム中のカードイラストやコラボの告知画像、アクスタ程度のサイズでは味わい切れない部分があるのは変わりません。

しかしこれはそもそもが着物、それもご存じの通り本物の加賀友禅のデザイナーさん達が実際に線を引いて作り上げた代物です。後にデザインコメントなどを読むと小さなイラストや3頭身アイコンでも映えるよう考えていただいていることが分かりますが、それでも本質は着物として等身大に仕立てられたときに映えるデザインなわけです。

例えばこの花帆ちゃん。
イラストで見るとパッと全身が一気に目に入ってしまい何となく「花柄かわいいよ……フラワー……」ぐらいで終わってしまうのですが、等身大で見るとこのポージングも相まって真っ先に袖口の大きな花の意匠が目に入ります。それも着物と聞いて何となくイメージする和風の梅柄や牡丹などではない硬質の多弁が目を引き、後にこれは花帆の象徴であるラナンキュラスとわかります。

袖口から入った次はオタクのサガとして花帆の魅力的なお顔に目を向けると、当然大きく鮮やかな髪飾りに目が行きます。イエスフラワー。が、その視線の途中で引っかかった何かに目を戻すと、古典柄の市松模様のポーチの中に花帆のウサギに加えて愛する梢センパイの蓄音機アイコンが。このサイズでなければ絶対に気づきませんし、ちょっと事前チェックしてこられた方なら「小物がポーチなのは花帆と慈だけど、ひょっとして見せてないだけで梢もお揃いのを持っている……?」などと早速想像が膨らみます。

そしてその流れで目を落とすと帯飾りにこれまた可愛いウサギと月の帯留めが見つかり「あらあら梢にも月から素敵なお嫁さんが来てくれるのね」と乙宗母もニッコリ感嘆(乙宗梢調べ)する仕掛けの視線誘導が成立しているわけです。

細部に神宿る、のみならず全身を一目では把握できないことで視線誘導効果が発生する

これだけでも十分はるばる金沢まで来た甲斐があったなー、とこの時点で十分満足してたのです。

またもウカツにも程がある!(続きます)

加賀友禅会館:デザイン画とコンセプト解説から感じた「愛」

さてさて、こんな等身大スタンディが一堂に会していて噂のコンセプト説明も読めるぞと、楽しみではありつつ軽い気持ちでやって参りました加賀友禅会館

前回訪問時もせーはすの加賀友禅染め回以後だったものの、その頃はアズールレーンさんのノボリしか無く寂しい思いをしましたが今回は表にも堂々我らが蓮ノ空のポスターが。

前回はここで「綴理……髪型変わったね……」などのボケを実行
一堂に会した等身大スタンディと印刷版解説。これぐらいかなと思ってたら……

6人全員の衣装を横並びで楽しみ、SDキャラ入りの印刷版の解説を呼んで、さて印刷版より中身が濃いとSNSで噂になっていた手書き版資料(コピー)をまずは端の瑠璃乃から読んでみますかね、と開いたら──

すごい……これ、瑠璃乃に送られた「愛」じゃん……!

振袖衣装「吉祥瑠璃文」に見る「大切に愛されてきた大沢瑠璃乃」

あの時の衝撃を一言で表すと、陳腐ながらも「感動」でした。等身大スタンディの情報量だけでは得られなかったデザイン画の精緻な書き込み、コンセプトシートに書かれたその一つ一つの描き込みへの想い。

これまた陳腐な表現ながら、そこに感じたのは「ご両親から瑠璃乃に贈られた愛情と願い」のようなものであり、ルリ様のオタクである自分としてはオタク的誇張抜きに胸に熱くこみ上げてくるものがありました。

菊田宏幸氏制作 瑠璃乃衣装「吉祥瑠璃文」
  • 小柄な瑠璃乃の身体に映える願いを込めた大輪の花々
  • 釣り好きを示す流水や泳ぐ魚などを織り込んだ、いわば「瑠璃乃好み」
  • 両袖にめぐちゃんを表す藤島の「藤」
  • 扇で瑠璃乃の勢いを示しつつ、これだけ華やかに吉祥文様を詰め込んでも派手にはしない美しさ

思えば大沢瑠璃乃は能登の生まれ。子供の頃の慈とのエピソードや服の話、カリフォルニア留学に蓮ノ空編入を考えてもそこそこ良いトコのお嬢さまでしょう。

にもかかわらず、ぶっちゃけお嬢さまらしからぬ方向に元気よく育ち、釣りやキャンプなどソロ活も大好きな瑠璃乃。でもそんな彼女の「今」をきっとご両親は「あるがまま」に受け入れ、祝福し、スクールアイドルカラーの桜色を基調に「瑠璃乃好み」として織り込み、まだまだ小柄な彼女がなお一層花咲いて欲しいと大輪の花を添えてこの一着を注文されたのではないか。振袖に祝福と願いをもって込められた親心──そんな背景がありありと浮かんでくるようです。

この言葉とデザイン画、そして結実したスタンディが融合して生まれる極上の「キャラクター表現」

さやかの「氷解く」は是非背中も見たかった……!

瑠璃乃衣装に次いで痺れたのはさやかの「氷解く(こおりとく)」です。

両手を傘の下に揃えたポーズなので少しわかりづらいのですが、デザイン画をみればわかる通りさやか衣装の基調となっているのは表も裏も全身を大きく流れる流水紋

柿本結一氏制作 さやか衣装「氷解く」

元々自分はよしながふみ「大奥」の影響もあって身頃に大きく流水紋という意匠が大変好きなのですが、こうして小さな模様にせず大きく一筋に描くことでさやかの全身を貫く大きなうねり、一本の大河=水色のきらめきを通じて大きく変化した彼女の運命のような印象を受けます。

そこで解説を読んでみればなんとこの流水紋は

  • さやかのスケートの軌跡=駆け抜けてきた距離であり
  • 綴理との出会いによる雪解けの表現であり
  • そこを流れる「ボクの赤」で縁取られた花は一輪咲きのバラ=夕霧綴理

デザイナーさん、村野さやか理解が深すぎる……!

流水紋の清涼にして大きなうねり、歩んできた氷上の軌跡、そして綴理と出会って解けた氷にきらめく水色のいわばトリプルミーニング。これは身頃を大きく見えるポーズや是非背面も拝みたかった一着ですわ!

綴理のバラに加えてさやかの生まれを金沢を示す梅の花(前田家家紋も梅だったりする)

こずめぐ一考:和の慈と洋の梢

この調子で6人紹介していると誌面が尽きてしまう(意訳:締切が近い)のですが、梢と慈のコントラストについてはどうしても触れざるを得ません。

志々目哲也氏制作 梢衣装「秘めた想い。」/清水恵子氏制作 慈衣装「ボロニアの咲く頃」


慈に描かれた花はボロニア。他の5人と同じよう春にまた花咲いて欲しいという願いを込めた意匠にも唸りましたが、驚いたのはデザイナーさんの想いです。

  • 何となく昭和な感じの慈さん
  • 可愛くなり過ぎずにしたい
  • ボロニアの花ことばのように芳しい香りでみんなを和ませて欲しい

一見カワイイを押し出してもおかしくない慈を前に、人と人の間を取り持つ慈の本質と「和」が似合うテイストを見抜いてたこの方、何者ですか!!

一方でそれこそ和装が似合い、いかにも日本美人な仕立てになってもおかしくない乙宗梢の方はパリスグリーン(毒のアレですw)を思わせる鮮やかな緑にアールヌーヴォー調の百合とツタ模様。兼六園級の乙宗邸を思わせる西洋的なデザインで攻めてきているのです。

立てば芍薬の梢に、その音楽的背景や実家の素養を加えた欧風のデザインを。
可愛いとハッピー至上主義な慈に、優しい薄紫の和の雰囲気を。

こずめぐ理解が深すぎる……!(定期)


噂の綴理は現地以前と印象は変わらないけど……

今回の加賀友禅こらぼ、蓮ノ空歌留多を見た時に一番インパクトがあったのがこの綴理です。

まず目を引く赤と黒で左右半身ずつ色が違う「片身替わり」。西洋的な思考だとかなりモダンなデザインに見えますが、これ調べてみるとなんと安土桃山辺りから武士に流行った意匠なのだとか。流石綴理、かぶいてやがる!

山田武志氏制作 綴理衣装「星ノ空 銀ノ糸」

また蜘蛛の巣の意匠が吉祥ということはたまたま知っていました。蜘蛛の巣が表す「待ち人来る」の意味合いに重ねられた星々は綴理がよく口にする「きらめき」、つまりこれは「待ち人来りて星をつかむ」さやかとの出会いかな……などと想いを巡らせていたものです。

どっこい三島の「美しい星」という超骨太のコンセプトが込められてました。

しかし逆に言えば意匠があまりに大胆かつ見事だったため、現地でそれほど印象が変わらなかったのも確かです。

というより、これこそ是非「本物」の加賀友禅仕立てで見たかった……!

と思っていたら、なんとデザイナーさんご本人が

自腹で作るんで運営の人、実際に作る許可出して

山田武志 takeshi yamada | 友禅会館並びに県内各地で始まりました 「ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」のイ�... | Instagram


蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ運営さま、お願いします!



加賀友禅という「現物」を見て

実際、慈スタンディのあった金沢中央観光案内所には今回の衣装とは直接関係はないのですが加賀友禅の見事な暖簾が飾られていました。

高田克也氏 作「四季草花瑞兆」@金沢中央観光案内所
展示されていた本物の加賀友禅は現代のキャラクターイラストデザインとまったく違和感がない


この鮮やかさ。繊細なグラデーション。

そして加賀友禅会館で展示を見てお話を聞かせていただきましたが、やはり京友禅などとは違い最初から最後まで一人で作成されるがゆえの加賀友禅の作家性はこのようなコラボで意匠を込めるのに実に向いているのだなと改めて感じさせられたのです。

最初にデザインを発注された際はまだ蓮のストーリー展開も序盤だった頃といいます。しかし、元より依頼者の希望とそれを表現する自らの理想の形を追い求めるのが「作家性」というもの。加賀友禅の制作者として培われた深掘り能力を本来フィクションである蓮の子たちに全力で発揮いただいた、そこに限りない感謝を捧げると共に、

なるほど、これは加賀友禅のような「場」でなければ成し得ぬコラボだ……!

と深く深く納得したのです。完璧な「わからせ」の発生です。

また現物といえば実際、加賀友禅会館でもう一つコラボされていたアズールレーンさんは本物の加賀友禅を合わせて仕立てられていました。お金があるコンテンツ凄いな!

先のデザイナーさんのコメントで「振り袖なんで実際制作して着るとなるとこのくらい柄が無いと寂しい」ともあったように、また私が冒頭金沢フォーラスで花帆ちゃんの等身大スタンディを一目見た時の衝撃にもあったように、

やはり着物、振袖というのは等身大で、そして現物をみて初めて伝わるものがある。

アズレンさんの現物を見てもやはりそう感じる面がかなり強くありました。

蓮ノ空でももし仕立てられた一枚があれば、金沢、石川という県境を超えて全国各地のイベントなどで展示する、あるいはキャストの方に実際に着ていただいて生きた文化としての加賀友禅を蓮ノ空のこと好き好きクラブのみなさんにお披露目することもできたのではないでしょうか。

是非是非、今後の展開として検討していただきたいところです。


最後に:聖地巡礼・金沢の地が選ばれた理由

舞台巡礼先として、金沢は本当に素敵な街です。

バーチャルリアリティの"Virtual"英語本来の意味は仮想ではなく「実質」。

蓮ノ空は実質現実(バーチャル・リアル)のスクールアイドルたちを描き出すことで、金沢の街を聖地巡礼先というよりは現地訪問先にしていると常々考えていましたが、今回の加賀友禅こらぼ巡りで本物の加賀友禅作家さんが蓮ノ空の彼女たちに想いを込めた様を目の当たりにして、改めてそのことを実感したように思います。

彼女たちはこの場所で、確かに「生きている」。

蓮ノ空のキャッチフレーズにもあるように、金沢は「雅やかな伝統が残る古都」

それは何となく背景として存在しているというより、蓮ノ空女学院というスクールアイドルの伝統を持つ学校を描く上での必須要件だったのかなという感覚があります。

それは例えば、金沢のお茶屋文化とスクールアイドル活動後援の類似性などもよく挙げられます。地元の人、と語られていた北陸経済界の「旦那衆」なくして徳光海岸に花火が打ち上ったりはしないでしょうw

また学問の都としての伝統、石川四高を擁していた金沢。

note.com


旧制高等学校の寮歌と蓮ノ空3ユニットの繋がりを考察された方もいらっしゃいましたし、また実際四高の生徒たちは「やんちゃ」でも知られていたらしく、その気風はどこか50年前に芸学部でアイドル活動を認めていた蓮ノ空女学院に通じるものがあるようにも思います。1970年代当時、最初のアイドル興隆期とは言えまだまだ「いかがわしい、教育によくないもの」とされていた時代に、ですよ!

そして今回取り上げられた加賀友禅、次いで第104期でスポットライトが当たった加賀繍。いずれもシナリオの都合で取ってつけられたものというより、そのようなアイドル衣装文化にも通じる美と作家性の伝統があればこそ、金沢の地は蓮ノ空の舞台として選ばれた、そこに蓮ノ空女学院という学校を置いて彼女たちを「生きて呼吸させる」場所として使わせていただくことができたのではないかと思うのです。

「咲く花は 百生にその色変わらねど 染める心に同じもの無く(連維)」

蓮ノ空と金沢の幸福な関係が、これからも益々発展してゆきますように。

加賀友禅こらぼが示したガチの愛と解像度を紹介することで、その一助となれますように。イエス、フラワー!(締めの挨拶)

蓮ノ空活動記録第15話感想:梢の「運命の人」の本当の意味

蓮ノ空活動記録第15話は、ラブライブ!決勝敗退後のお話でした。

どの子にもそれぞれの感情があって全員に心を揺さぶられたけど。
蓮ノ空の今日までの根底にあったのは乙宗梢の始めた物語、そう分からされる話でした。

(この記事はふせったーに記載したものを改筆したものです)
https://twitter.com/rennstars/status/1744285761657332011


目次:

包み隠されてきた絶望、本気にしてこなかった切望

「勝たなければ、優勝しなければ、私には何もない」

自分たちもあの場の花帆と同じく、梢のその熱望も覚悟も、そしてその上で彼女がずっと「何も得られないまま何かを犠牲にし続けてきただけ」──そう梢自身が思ってきたということを、本当の意味では分かってなかったんじゃないかと思うのです。

過去のスクールアイドルたちが得てきた「なにか」が詰まった一冊のノート

「何もない、本当に欲しかったものは手に入らない」

なぜ梢は綴理に憧れ、でも隣には立てないと思ってきたのか。
なぜ梢は慈には自分に無いものがあると散々言い立て、一方で自分は何度言われても可愛くないなどと固執してきたのか。

──ああ、それは本当にそう思ってきたからだったのです。

単なる謙遜でも仲間への称賛でもない。彼女たちとは違い、自分には勝つための努力しか何もないのだと。なのに勝つことができない、その絶望の中に彼女は生きてきたということです。


しかも去年を振り返れば、梢は沙知を止められず、慈を見捨てたまま、綴理をも騙し、何もかもをその手から零れ落とし他人を傷つけてまでスクールアイドルクラブの存続と勝利を求め、敗北以上の大きなものを失ったのが梢です。ただ何も無いだけじゃない、誰かをずっと犠牲にすらし続けてきた。それでも、彼女は勝てなかった。

梢は沙知も慈も本当に切り捨てたわけではないでしょう。しかし彼女自身が後から振り返る時、「自分は活動存続や大会勝利のために二人とも引き留め切らなかったのでは」という自責がずっと付きまとってたのだと思うのです。責めるのは自分、だから誰にも赦してもらえない、その辛さの中で彼女はあの冬の時代を過ごしてきたのではないでしょうか。


もちろん、梢とて新たに始まった103期の日々には様々な喜びを見い出してきたはずですが、それでも長いスパンでは彼女がずっとそう悔やみ続けてきたことを今回改めて知らされたのです。それが、何よりの衝撃でした。

結局のところ「梢センパイはなんでもできる」その実力値を認めないほど己に無知ではなくとも、彼女にとってその程度の「できる」は「勝つ」まで何の意味も無いものでした。

また我々読者も、例えばラブライブ作品のメインキャラだから「目標はラブライブ優勝!」なんて言うのはどこか当たり前と捉えて、これまでの物語の端々に梢の本気度が描かれてはいても、その深さと、その深さのために彼女が払ってきた犠牲、犯してきた罪の重さを、花帆と同じく我々も考えてこなかった──そう突きつけられた気がしました。

ここで改めて振り返ると、今まで「梢のちょっと面白いところ」とされていた全てが刃のように自分の心に突き刺さります。

早口オタクのような花帆語りは「自分には花帆しか誇れるものが無い」。
筋トレ好きは「持たない者でもやっただけ得られる成果」。
機械さんが苦手という面すら、黙っていればその立ち振舞いから「梢さま」と呼ばれてしまう彼女が「やっと見つけた、アイドルらしい自分らしさ」として無意識のうちにお得意の努力で克服しきらないようにしていたのかもしれません。


「運命の人」の本当の意味

あの時梢が持っていた一輪のガーベラの花言葉は「運命の人」。そんな情報がSNSを駆け巡りました。

しかし考えてみれば、花帆が梢にとって運命の人だなんてことは物語の中でもスリーズブーケの歌の中でも散々謳われてきたことです。ただそれだけなら、今更ストーリーの中で改めてモチーフとして持ち込まれる意味は薄いように思います。

今回、彼女はひとりで運命の花にすがって泣き、そして自分には何もないと告白した時にその花を手落としてしまいます。

その時に気づいたのです。今日までの梢にとって、花帆はむしろ「所詮、運命の人」に過ぎなかったのかもしれない、と。

梢が憧れた綴理の才覚や慈の可愛さ同様、花帆への感情も「何もない自分には無いものを持っている憧れ」が強かったのではないか。明るく、前向きで、ただひたすらにライブが好きで、その好きを見せることにためらいが無く、そして人を頼れて、物事を強く動かす力を持っている花帆。

自分に無いもの。あるいは梢自身が以前語ったように「以前の自分を見ているよう」すなわち「今は失ってしまったもの」を持っている、花帆。彼女との出会いはまさに「運命」だった──

でも、同じことの繰り返しです。梢はそんな運命の人がいても勝てなかった。
運命の人もまた自分の手から零れ落ちてしまう何かの一つだった。

この花が運命の人なのが重要なのではなく、それを落として、拾ったことが一番の寓意

あの時梢の手から滑り落ち、その傍らで涙に暮れた一輪ガーベラは、むしろそんな「ただ偶然出会った運命の人」の象徴、「ただ憧れただけで勝てずに手から零れ落ちた運命の人」の象徴だったように思うのです。

花帆にとってずっと梢は憧れでした。でも実は梢にとっても、花帆は憧れでした。
憧れは理解からは一番遠い感情──そんな言葉もあります。


しかし。

梢にとって花帆は、本当にずっと「ただ憧れた運命の人」に過ぎなかったのでしょうか?

もちろん違います。

半分はそうだったかもしれません。でも半分は絶対に違う。

思い出してください。そもそも梢は運命の人を座して待ってたわけではないのです。梢自身が第15話の中でも語っていたように、花帆が運命の人であると選んで自らの意志でつかみ取りに行っている

蓮ノ空の物語は、まぎれもなく乙宗梢の手によって始まったのです。

ただ花帆が動かしてくれた事態に乗るのではなく、花帆から学び、時に花帆に助けを求めることだって十分にやってきてる。今日だって、最初に梢は言うんです。

「よかったら、あなたも一緒に来てくれない?」

私たちが最後に知るその深い悔しさと絶望を隠しながら、部長としてメンバーに言葉を掛けに行く。その困難を前に、梢はちゃんと花帆の助けを求めてるんです。ただ辛い自分だけのためじゃない、それがメンバーのためにもなると理解しているのです。


何より、梢は確かに花帆という名の花を「今この場所で」咲かせたその人なのです。


だからこそ、花帆の仕事はその落としてしまった花を拾って、その手に戻してあげることだけだったのでしょう。

カワウソから逃げたあの日のように、今日もまた紅茶のカップによって花帆と梢は「偶然出会い」ます。

でもあの日、その偶然を運命に、自ら手繰り寄せる運命に変えたのは他ならぬ梢自身だったのです。そして今、その梢と共に確かに歩んできた花帆もまた、運命が拾い上げるのを待ちませんでした。

その花は自らの意志で梢の手の中に、隣に戻る

日野下花帆という花咲いた自分自身を、自ら梢の手の中に戻す。それこそが花帆の宣言だったと思うのです。

だって、花帆はもうここに戻る前に分かってたんです。
自分の悔しさは、後悔は、この人を優勝に連れていけなかったことだったのだと。

だって、花帆は知ったんです。
あの、夢のおとぎ話のような場所を。梢が心に描き続けてきた風景を。

梢の記憶と花帆の記憶は同じまばゆい光=「夢見ても、まだ見られていない世界」として描かれている

梢の夢を、ようやく、自分のものとして信じることができたんです。


今、花帆は夢を信じて苦しみながら歩いてきた梢を知りました。
その梢を信じるからこそ、花帆も歩いてゆける。

今、梢は自分の夢を信じて歩いて行ける花帆を知りました。
その花帆を信じて、梢もまた歩き出せる。


ああ、だからこそDream Believersの歌詞は一般的な「I believe dream(私は夢を信じる)」ではないのだと思うのです。
あの曲が歌うのは「Dream Believers, I believe(夢を信じる人を、私は信じる)」
そして「Dream Believers, You believe(あなたが信じる、夢を信じる人)」
蓮ノ空は、スリーズブーケは、その相互性で成り立つ関係なのです。

相手を花咲かせ自らも花咲く、憧れじゃない対等のパートナーになれた瞬間。
それが第15話の今日だったのでしょう。
梢からの「花帆」というその呼び掛けは何よりの信頼の証。
少しだけ驚いて、息を呑んで、そして力強く「はい」と彼女が答えた時。
隣を預け、背中を託せる、梢にとっての綴理や慈と同等以上の存在に花帆はなれたのだと思うのです。


だから、今なら堂々と言えます。「花咲けたね、花帆」。
だってあなたは今、立てば芍薬の花の隣に確かに立てているのだから。





追伸:それでも間違えたくないこと

この先はふせったーには書かなかったことです。

梢の絶望は、言わば美しい物語です
あの立ち振る舞いの中に隠してきた自己評価の低さ。周りの人間を傷つけてきながらも勝てなかったという絶望。そこから梢という人を再評価するのもまた読者としては感情を揺さぶられる楽しい行為です。

しかし、ここであえて触れておこうと思います。

乙宗梢だって、ただの17歳の高校2年生なんです。

幼い頃からの夢だったラブライブ優勝にあと一歩のところまで手を掛けて、敗れた。あと一歩、あと少しで叶うところだった。

その直後に、自分の全てが否定されたような感情に囚われるのは当然のこと

だから、あの時梢が言った言葉の全てを私たちはそのまま信じてはいけないのだと思ってます。彼女自身が瑠璃乃に語ったように、彼女もまた

「あと一歩の敗北の悔しさという眩しさに、少しだけ自分が見えなくなっている」

だけではないかとも思うのです。

実際、本当に梢は「勝たなければ、自分には何もない」と思い続けているのか?

そんな人が「今ここで、あなたたちと勝たなければ意味がない」なんて言いますか? 才能で選んだわけではない少女と優勝の夢を見たいなどと言いますか?

第12話でいみじくも梢がさやかに語ったように。
梢もまた、もうとっくに「持っているもの」を見つけてるんです。

ただ勝利だけじゃない。「今、ここで、仲間たちと、勝つ」こと。そんな「余分」を既に梢は持っているんです。乙宗梢は、仲間たちと共に夢を目指すという自分自身の道をすでに見つけて「輝いてる」んです。

だからこそ乙宗梢のスクールアイドルのきらめきは日野下花帆という運命を引き寄せたんです。一度ならず、今日この日という二度までも

そしてそれに気づけないほど、乙宗梢という人の目は曇っていない。
花帆という存在を得て、彼女は「今」をしっかりと見えるようになっています。

自己評価が低いのは確かでしょう。
勝利する日まで夢が叶わない、という呪いも本物でしょう。

でも、梢が今この期に及んでも勝利以外に何も見つけていない、自分は何も持っていないと「思っている」かのように受け取ってしまうのはいささか行き過ぎだと思うのです。


蓮ノ空の見晴らし台で、凛々しく「全員で願いを叶えましょう」と宣言した乙宗梢を。
花帆を頼りにして、今度こそ二人で夢に向かってゆける梢を。
夢を信じる物語を、今年も応援していきたいと思うのです。


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