オタクって生き物はよく言うんですよ。
「この作品は劇場版だけ見ても面白い」って。
正直エエーほんとにござるかぁ?って思うモノも多いし、実際問題として作品を知らないけど劇場版だけ見に行く人自体がレアだったりしてなかなか実証できない代物でもあります。
しかも今回挑む「新時代の扉」こと劇場版ウマ娘って存在は二重にミリしら条件が存在するわけです。
- ウマ娘は知らないけど競馬はそれなりに知ってる
- そもそも競馬自体知らずウマ娘も知らない
1番のように「ウマ娘は知らないけど競馬好きなら楽しめる」ってパターンは割と想像できます(※競馬好きだからこそウマが苦手って方がいるのも知ってます為念)。しかしこの2番、言うなれば真のミリしらが観てどうなのか? でもそんな奴いるのか?
ここにいるぞ! 真のミリしらたる我が!!!
ということで今回、ウマも馬も好きな友人に誘われウマも馬も知らないこのワタクシが前情報・下調べ一切なし・予告編すら観てないぞの完全ぶっつけ本番で劇場版ウマ娘を観てまいりました。
結論から言うと表題にもあるようにミリしらでも控えめに言って最高、全方位に手抜きの無い末端まで神経が行き届いた一作、個人的には2024年のベスト映画、アニメ史に残すべき一本に数えられる作品でした。いやーここまでとは本当に嬉しい想定外!
※本稿は2024年6月の初見時に映画のあまりの見事さの衝撃と勢いで4500文字書いたのにオチをつけられず未公開になっていたものを10/18再上映記念で書き加えたものです。とはいえ感想の大部分は執筆当時のものにて。また初見に加え2回観てセルフ補完した部分も含みます。
観賞前の我のウマ馬ミリしら度
ウマ娘について知ってること:
- いわゆる女体化ゲー(よくあるやつ)
- 耳ついてたっけ?
- 名前と顔が一致どころか名前を憶えてるキャラが一人もいない
- こいつらうまぴょいしたんだ!(←わかってない)
競馬について知ってること:
- 馬がレースする
- ギャンブル。なんか1位当てるだけじゃないらしい。難しい
- 馬名、レース名、その他一切何も知らない
- ロイヤルアスコットではトップハットの着用が求められる
以上です。文字通り「ダービーって何? 馬のレースは全部ダービーじゃないのかねオービー君」とかゲーム機全部ファミコンなオカン認識で劇場版に臨んだのが我です。はてさて。
で、観たら椅子から転げ落ちた
初見直後の感想がこれです。
- 控えめに言ってめちゃくちゃ面白かったじゃねえか!
- 走る、前に出るという原始的な構図は肉体言語がそのまま物語になる「ズルさ」がある(ボクシング等でも感じるヤツ)
- 何か素敵な先輩が突然えっちなお姉さんになって帰ってきてしばらく話が頭に入らず(大好きです)
ミリしらで行くウマ娘劇場版、
— 星崎連維@僕ラブ金沢予定 (@rennstars) 2024年6月15日
・控えめに言ってめちゃくちゃ面白かった
・走る、前に出るという原始的な構図は肉体言語がそのまま物語になる「ズルさ」がある(ボクシング等でも感じるヤツ)
・何か素敵な先輩が突然えっちなお姉さんになって帰ってきてしばらく話が頭に入らず(大好きです) https://t.co/GmmwPjavY6
まず何より、競馬というか「レース」という極めてシンプルで原始的な競技を軸とした物語の強さがウマ馬ミリしらだろうが何だろうがストレートに叩き込まれてくるんで、これはむしろ楽しめない要素が無いとすら言えます。
この辺、自分はよく「肉体言語」って言葉を使います。わかりやすい例は格闘モノで、痛みを与える、受ける、地に倒れる、立ち上がるなど、格闘の要素でありつつ人間ドラマの直接的な表現が成立する形の物語の分かりやすさと強さのことを指します。
で、考えてみればレースもまた究極の肉体言語の物語なわけですよ。何かに向かって走る、背中を見る、追いかける、隣を走る、追いつく、追いつけない、追いていかれる──その全てがキャラたちの超克や関係性の物語そのものの表現になってる強さ。これはたとえ競馬の細かい知識が無くても「理解らせ」そのものですわ!
しかもこの劇場版ウマ娘、そのレースという肉体言語ドラマを支える演出、構成、キャラデザ、演技、そして初見者への細やかな配慮に到るまで全てがトップレベル。なんというか全方位に手抜かりがないんです。アニメとして、映画として上手すぎるんですよ……!
そもそもつかみが完璧
2024年7月当時期間限定で冒頭映像が公開されてましたが、改めて観てもまずこの開幕フジキセキのレースとジャングルポケットの邂逅シーンがつかみとして完璧なんですわ。
駆け抜けてゆく地響き、湧き上がる歓声、勝負を決めるのは「踏み出す一歩」、そうして巻き起こした衝撃波がポッケの「夢」を揺らして──競馬全然知らなくてもウマ娘ミリしらでも問答無用で叩き込まれてくるレースという肉体言語による夢の伝播。その演出表現はこうして動画で改めて観ても完璧としか言いようがないんです。
【本編冒頭映像 期間限定公開!】
— 劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』 (@uma_musu_movie) 2024年6月24日
劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』
本編冒頭映像約7分が1ヶ月の期間限定公開🥕
フリースタイル・レースで走り続けてきたポッケがフジキセキの走りに衝撃を受け、<トゥインクル・シリーズ>に挑むことを決意する本作の重要シーン!
主題歌「Ready!!… pic.twitter.com/ptKbBil1TB
さりげなく上手い映写機導入
冒頭、映写機のパートはウマ娘という作品の一種のお約束説明なのかもしれません。でもここで「彼女たちは走り続ける」というグランドテーマを「競馬モチーフなんだから当たり前だろ」と流さずに印象づけてるのが後から効いてきます。あと映画という存在の歴史が走る馬の連続写真から始まったことを知ってると「おっ、この演出はシャレてやがんな?」と謎の上から目線で感心させたりするの何気に上手かったり。
レース幕開けの表現でいきなり「理解らせ」られる
さてウマ娘を知らない身としてはレース表現はどんなもんかな、人型なのにゲートに入るしヨーイドンポーズなのちょっと面白いなフフッ、などと腕組み舐めプみたいな構えをキメている間にレーススタート。
……えっ?と派手な煽り曲もなく響いてくるアコギの抑制された旋律("Twinkle Miracle")に一瞬戸惑っていると、そこを駆け抜けてゆく地響きと歓声。それをすぐにまだ場外にいるポッケの視点に切り替えて「まだ遠い別世界の出来事」として描く。やがて階段を上がったポッケの目を不意に焼く光、交差するフジキセキの横顔、途端に開ける広い広い世界──
ああ、これは夢の始まり、新しい世界との出会いと追憶のシーンなんだ!と一瞬で理解できるこの作りがもう既にスゴい。
そして彼女たちが走る。「走り、追い抜き、前に出て、誰よりも早くゴールする」。仕組みやルールを何も知らなくても理解できるレースというプリミティブな勝負の表現が流石に上手い! この辺りは競馬中継という歴史的蓄積のある映像表現も生きてるのかもしれないですが、アングルの切り替えの妙、FPS/TPSカメラのダイナミックさ、そのアニメへの落とし込み方で一気に引き込まれるわけです。
ミリしらに大変ありがたい「中山の直線は短いぞ!」
この辺の実況、もしかしたらリアルっぽさで雰囲気を出すための演出なのかもしれません。
とは言え、自分のように競馬とかミリしらでレース展開の基本も競馬場の環境も知らない身でも、この短い一言があるだけで今レースはこういう段階にあってここから勝負どころが来ますって補助線を引いてもらえるんですよ。これだけで物語自体への理解が全然違ってくる。このさりげない実況その他による状況説明は最後まで続くので明らかに意識的なモノだと思いますし、ミリしらが最後まで楽しめた理由の一つは確実にコレです。些細なことだけど「制作の神経が端々まで行き届いてる」と感じましたねー。
踏み出す一歩、大地の響き、レースという本質
この映画、初見の自分に最強に印象に残ったのが決めどころの「踏み出す一歩」。
この初回レースに限らず、彼女たちが勝負を決めに行くシーンでは縮地の如く「勝負を決めに行く一歩目とその加速」の表現が本作はめちゃくちゃ強いんです。ここではフジさんがズシリとその一歩目を決めると光があふれ、鳴らされた地響きがポッケのあの謎クリスタル≒夢を揺らして舞い上げ──
からの、王道レース展開の最後の引き離しのド迫力たるや!
自分はこの初見上映をTOHOの轟音上映で観たのですがこれは大正解。彼女たちが「走る」という本能的な激情を叩きつける地響きが物理現象として自分の膝を震わせるのはもう堪えがたい興奮ですよ! ここまで「音の振動」の良さを感じたのはノーランの「ダンケルク」のドッグファイトシーン以来かもしれません(真顔)。
場内を揺らし続ける地響き、後ろへと流れゆくコースライン、そして何より爽やかに笑うフジさんと二番手メガネの必死の形相のコントラスト。実は「踏み出す一歩」と並んで初見で思い切り印象に残ったのはこの二番手メガネの絶望の顔なんです(名前知らなくてごめんね)。
レースを描くということは。
勝利する者を正面から捉えるということは。
その後ろの敗者たちの形相を全て克明に見せるということ。
この劇場版ウマ娘は「それ」を描いてくる作品なのだと、初手から理解できるんです。
……プリティダービーだ? プリティでも何でもなくね? 超熱血の物語じゃねこれ?
ポッケの夢の一歩目を描く演出の見事さ
ここまでのシーンとカットの使い方自体が恐ろしく技巧的なんですが、このフジさんのレース後のポッケの描き方がこれまた最高で。
レースを眺め終えたポッケがその場から一歩も動けず呆けたまま、瞬きの間に時間が過ぎるってのを直接的にマッチカット(全然違うシーンだけど同一構図・同一モーションで繋ぐヤツ)で見せてまたも「おっ、また技巧的な演出キメてきたな」とニヤリとしたかと思うや否や──
夢の跡とでもいうべき夕暮れ時の静けさの中であの謎クリスタル(多分夢の象徴)を煌めく太陽の残光の中に投げ上げた直後、それを追いかけ出す瞬間のポッケもまた同じ「踏み出す一歩」をキメて走り出し、舞い上がるんですよ。
OK理解、これは彼女、ジャングルポケットの物語なんだな──
と理解した直後に高らかに鳴り響くファンファーレ。
タイトルロゴ「新時代の扉」ドドーン。
……からの主題歌の歌い出しがたった今見たグランドテーマそのものの
「走って! 走って! 憧れを越えて!」
完璧じゃんこの導入……!!!!!!!!!!!
もうこの辺で「ミリしらで観に来た」「ふーん、随分稼いでるソッシャゲらしいけど見せてもらおうじゃん」みたいな感情は完全にゲートに置いてきてましたね。座席でのけぞって泡噴きながらOP歌眺めてました。もう勝ったも同然だよキミら……。
演出もすげえがデザインもクッソ良い
限定公開済みの冒頭シーンを語るだけで3000文字使ってしまって書いてる側がビビってます。琴線に触れた場面全部書いてるとキリがないので初見の衝動に絞り込んで参りましょう。
冷静に考えてキャラデザが全員強すぎる(蓮ノ空構文)
まず何よりポッケちゃんカッコ可愛いです(真顔)
なおこちらは「ポ゛ッ゛ケ゛ち゛ゃ゛ん゛か゛っ゛こ゛か゛わ゛い゛い゛で゛す゛」と読みます。
……えっと。この映画、構成や演出といった部分もほぼ完璧に良かったんですが、そこをがっつり支えているのが華やかで高品質のキャラデザが支える「画の華やかさ」です。ていうか
「登場ウマ娘、全員キャラデザがめちゃくちゃ良い。流石カネがあるコンテンツ」
がガチで最初の感想でした。
まぁジャングルポッケが個人的な好みのツボを刺しまくってるのは事実なんですが(HAHAHA)、にしても主要キャラに留まらずおそらくゲーム側で登場済みであろう周辺キャラや今回限りのモブ扱いの子たちまで可愛いだけじゃなくキチンと個性が立ってて目が飽きないんですよ。
デザインがキャラ設定や物語と直結している強さ
例えばポッケ以外だと個人的に目を引いたのはダンツフレーム。もちろん後のドラマによる部分も大きいですが、オタクであればあのキャラデザの時点で良い意味での勝てないヒロイン、されど非才を努力で食い下がる存在だってのがビシっと伝わってくるんです。簡単に言いますけどこれをあらゆるキャラで作り込んでるのマジすごい。
フジさんが黒髪に澄んだ青眼ってのもホントいいですね、どこか硬い傷を持った優しい先輩感、優しいだけではなくその浄眼で時折何か違う世界(≒叶わなかった何か)を見ている感じがばっちり伝わってきます。
(なので終盤突然えっちなお姉さんになって表れた時にはしばらく話が頭に入ってきませんでしたが……後で聞いたらタキオン声優のすみぺも同じこと言ってたそうで噴きましたねw)
あと「勝負服」って概念は神。
本編開幕早々いきなりポッケちゃんのちょっとえっちな胸元とカッコ可愛さが一目でわかるデザインが提示されたかと思えば、横に並び歩くはキャラ性を一発で理解させるタキオンの白衣服。いやいやこれはちょっとコテコテマッドサイエンティストやりすぎじゃね?と半笑いになった直後の戦闘機が雲を引くが如く翻る白布で笑いが消えてアゴが落ちる。改めて振り返ると作中最も「速さ」という根源の一つを極めた彼女が「最も後方にたなびくデザインの勝負服」をまとってるの、キャラ設計・物語・デザインが完璧に噛み合ってる証と言えます。
また後に最終レースで登場する覇王・テイエムオペラオーが序盤で顔見世しますが、彼女の勝負服を見た瞬間に「なるほど『格』が衣装で体現されんのかこの作品は!」ってなる分かりやすさもマジ良かったですね。こういう分かりやすいのに過剰じゃないキャラデザ攻めのラインはホント唸りました。カネがあるコンテンツだ!!!
加えてミリしら的には勝負服のブーツがチャリチャリと金属音を立てるのも最高に股間に来ました。恐らく馬の蹄鉄の表現なのだと思いますが、個人的な印象はそれ以上に甲冑≒戦闘服をまとった騎士が歩く時に鳴る鎧の響き。彼女たちが武者であり騎士である、と端的に示す表現でこれまた唸ってしまいます。
と同時に、本作は学園物の側面も持つためそんな勝負服をキメた可愛い子たちの制服やトレーニングウェアという一種のギャップも味わえ二度三度美味しい。こいつは個々のデザイン以上に多様な服を出せる設計の巧さってヤツですな!
レースという肉体言語を巡るドラマ
「──忘れない。忘れやしねえ。一瞬で駆け抜けたその横顔に、一目で憧れた。芝を揺らし天高く届く地響きに、心奪われた。ああ、この憧れと衝動だったら、たとえ足を折ったその先でも何度でも思い出せる」
(作中にもこんな台詞はなく単なる我がイメージした創作です)
……そんなFate UBWみたいな一節が浮かぶフジキセキ→ジャングルポケットに伝わった衝動と夢の物語、そして最後には同じ衝動の継承をなぞるアグネスタキオンの物語。このリフレイン、円環構造がもう本当に上手かったんですよ。
冒頭で書いた通り私は競馬もウマ娘もミリしら。
競走馬に同年同期の概念があることも、レースに年齢制限を掛けることで一種のシーズン制のようなものがあることも、ゆえに特定のレースに一回性の勝負の意味があることも全部知らないまま初見の映画を見通しました。
でも。彼女たちの物語は、何の問題も無くこっちの側頭部をぶん殴っていきました。
「勝ち逃げ」をキメたタキオンと、その鮮烈な敗北にずっと頭を抑えつけられ続けるポッケの構図。勝てども勝てども振り払えないポッケの敗北感と、ポッケとダンツの競い合う姿を見て以来「理論の上では勝った」はずのタキオンの内で燻り続ける火。この辺りは前提知識の要らない普遍的な物語でありつつ、一つ一つのカットが丁寧で実に素直に胸を打ちます。
ポッケが所属するタナベとフジさんのトレーナージム(?)が明らかにあしたのジョーオマージュなのも素直に良く、フジさんの「叶わなかった夢を託してしまう」心境がスッと心に入ってきます。(これは終盤、フジさんが得たのは「他人に任せてしまった夢」などではないって構造がまた上手いんですが後述!)
また全体を通じて演出も台詞回しもホント完璧なんですよ。タキオンにただ一人「才能」って言葉を向けてるのが己の凡才を嘆くダンツだったりとか実によく設計されてる。ポッケが己に囚われ始めると「練習ジョギングでも先頭を行かなくなってる」辺りの表現とか、とにかく暗喩を教科書的とすら呼べるほどに全ての画に仕込んでいて無駄なカットが一つもない。本作が「アニメ作品として歴史に残る一本」だと感じた所以です。
この辺、時系列で書くと本当にキリがないので印象ポイントに絞って列記しますと……
えっちなお姉さん・フジさんの真価
いきなりアレな見出しですが、心折れたポッケの前に再び勝負服をまとって現れたフジキセキ、あれは彼女が乳出し勝負服で現れたその衝撃を抑えて物語としてみると映画開幕時のレースで見たフジさんの横顔のリフレインなんですね。
本作は肉体言語の物語。いみじくもタナベトレーナーが語ったように、共に走らなければ分からない何かが確かに存在する世界です。
ここでポッケとフジさんが共に走ることで、あの日、己の視界を一瞬で横切ったフジさんの最高の横顔をポッケは再び目にするわけです。しかしあの日と違うのは、彼女は同じ芝の上で、同じ「レース」の上でその横顔を捉えたということ。
あの夢の衝動を、きっと彼女が決して忘れることのない己の始まりの瞬間の熱量を今、あの日のように再び己が足で駆け抜けているフジさんの真横でもう一度受け取って──
泣いちゃうだろこんなの!!!!!!!!
しかも何が美しいって、フジさんがその再び自らの足で駆け出す情熱を見い出したのもまたポッケ(とダンツ)のあのダービーの勝負であり、勝利であったということ。ポッケは決してフジさんの叶わなかった夢を代わりに叶えたのではなく、その夢に再び火を灯したのです。芝から空へと昇る衝動は次の衝動へと伝播し、発火した情熱は再びその起源へと還る──美しいまでの円環構造です。
しかもそのフジさんを焚きつけたポッケの閃光は、同時に「もう夢を叶えて上がった」はずのタキオンにも着火していたのが強いんですよ。この一つの構造で同時に二人を描く、二人の円環構造がいつしか三人となるやり方が本作は実にワザマエなんですわ。
ポッケとタキオンを巡る表現の見事さ
どのシーンにも意味があり、どのカットの画にも暗喩がある──そんな本作の中でも個人的に一番刺さった表現は、意外かもしれませんがフジさんとのレースで己の「衝動」を取り戻したポッケがタキオンに並走を頼みに行くシーンなんです。
荒れ果てたタキオンの研究室。そして窓枠につるされたタキオン自身の謎クリスタルを通した光が、その黄昏色の部屋の中に散乱している──
これ、ポッケたちを通じて叶えればよかったはずの己の夢の『欠片』が残光として彼女の『勝利』を生んだはずの研究室の中を舞っている、そんな象徴的なシーンなんですね。何度も示唆されているようにあのクリスタルは夢や情熱の象徴。しかしタキオンのソレは既に彼女の手を離れ、部屋の外に所在なさげに宙づりになったまま。そのプリズムの光だけが部屋の中に残り、散り、そして彼女自身の手によってカーテンは閉じられ光は消える。
そこにあるのは「選んだ道の虚しさ」であると同時に、夢の欠片は、輝きは、まだそこに残ってもいるのだと伝えてくるんです。
ここ、重ねて描いてきたあのクリスタルを使った最高の表現だと思ってます。静かで、穏やかだけど、灰の中の埋め火のような熱量が隠されているワンシーンでした。
──そして迎えるラストのジャパンカップ。
大一番なのにそのBGMの入りは実に抑制された旋律("The Japan Cup")。この展開は思い切り映画冒頭のフジさんのレースの入り("Twinkle Miracle")のリフレイン、追憶から「今」に繋がる円環構造を感じさせてくれます。「あの日見た夢の始まり」から、「その夢が一つの答えにたどり着くところ」。この時点でちょっと涙で前が見えない状態です。ヤバい。
オペラオーの「設定上のラスボス」が示す「真の敵」の在り処
ここで登場するテイエムオペラオー。
実のところ、ミリしら勢にとって彼女はぶっちゃけ設定上のラスボスに過ぎません。本作中ではオペラオーに思い入れを持つほどの物語は描かれてませんし、良くも悪くも分かりやすく用意された強敵という感覚を受けます。
でも、本作の締めはそれでいいんですね。
ここまであれほどレースという肉体言語をもって「追いかけ、追いつき、隣を走り、追いつけない」という「オレとアイツ」の物語を描いてきた果てに、
「走るとは最後の最後では一人であり、勝ちに行く相手は己自身」
という、走るという本能的な行為の原点の原点にポッケが「覚醒」するのですから。
ここで本当に上手いのが、ここにきてポッケのみならずレース参戦者の全員がひたすらに連呼するのがただ一つ「私が」「勝つ!」のみということ。そこに「アイツ」はなく、ただ「我(オレ)」があるのみ──それは他ならぬオペラオーが宣言した精神そのものに他ならないわけです。
オペラオーは倒すべき「アイツ」としてではなく、あの場に挑んだ者が到った境地、現時点でその極北に在る存在、一種の象徴、そしてポッケが至るべき姿として描かれてるんです。テイエムオペラオーの覇道の物語はあくまでオペラオーのものであり、今ポッケの──否、あの場に挑んだ全てのウマ娘にとって、彼女の物語は良い意味で不要なんですね。そこにはただ「我」があるに過ぎないのですから。
レースを描くということは。
勝利する者の視界を映すということは。
その眼前に何者もいないただ己だけの世界を見せるということ。
映画開幕で感じた「二位以下≒全ての敗者の形相を見せること」の真逆の演出がここで炸裂し、物語が鏡合わせのように完成するのです。ストーリーテリングが上手過ぎる!!!!!
と同時に、最初のレースから見せていた「芝を揺らす彼女たちの地響き=情熱が観覧席の天辺まで届く」あの演出がこの最後のレースで届く先は──アグネスタキオン。これがまた見事なんですよ。
作中において何者の後塵も拝さなかったタキオンがここで初めて、そしてたった一度だけ、遠ざかる誰かの背中に向けてこぼした「……待ってくれ」という言葉。
越えるべき勝者の不在に苦しみ抜いたポッケが今、何者の不在をも意に介さずただ己の勝利のみへと疾走する横顔を見せて宣言する「──先に行くぜ」。
それこそが、ポッケが高らかにタキオンの「前に」出た瞬間であり。
それこそが、タキオンがポッケの「後塵」を拝した瞬間であり。
あの日駆け抜けるフジさんの横顔がポッケの夢を燃え上がらせたように、この日駆け抜けるポッケの横顔が、背中が、あの芝を揺らして天まで届いた情熱の地響きが、タキオンの夢の欠片を再び灼いて発火点に至らしめた瞬間だったわけです。
故に彼女たちは駆け出し、雄叫びを上げ、そして駆け続ける。
ポッケは己自身を越える勝利に向かって。
タキオンは再び己自身の脚で手に入れる勝利に向かって。
ああ、何と見事なリフレイン、物語が冒頭に還る円環構造。
ポッケがたどり着く様は当然としても、まさかここで行く先も考えずに全力で駆け出してゆくタキオンの姿で号泣させられると思ってませんでした……。互いに違う方向を向いていてなお、二人の物語が同じ「走る」という様で未来へと広がってゆく。
……思い起こせば、映画の最初の最初に私たちは言われてたじゃあないですか。
「彼女たちは走り続ける」、と。
彼女たちは、走り続ける。ポッケも、タキオンも、フジさんも。ただの競走馬モチーフなキャッチフレーズのようにも聞こえていた言葉が、真のグランドテーマとしてこの大サビで叩きつけられてくるわけです。こんなの物語的快楽以外の何物でもないですよ……!
というわけで、最後までレースという肉体言語で「一周を巡ってくる」表現をやり抜いて完遂されたこの物語。考え抜かれた脚本と構成の前にミリしらなどという受け手の都合は何一つ問題になりませんでした。もちろん原作や史実側を知っていれば更なる思い入れが発生するのだとは思いますが、もう物語のアーキタイプとして純粋に強すぎですわコレ。
エンドロール:うまぴょい……した……?
再び己の夢と衝動を取り戻したジャングルポケット。
再び己の脚でたどり着く領域を目指すアグネスタキオン。
対等に勝利を追い求める道を諦めなかったダンツフレーム。
同じく「その先」を目指す意地を見せたマンハッタンカフェ。
ラスト、四人が先の見えない光の中へと歩み出てゆくシーンを見て。ああ、ここから「その勝敗はまだ誰にも分からない、彼女たちの未来のレース」が始まるんだ。なんて美しい物語の終わり──とか思ってたら。
なんかステージ始まって踊り出してるんですけど!!!!?????
俺が今まで見ていたレースの肉体言語は!!!!!!!???????
これこそマジのミリしらでこの展開は全然知らなかったので、気分はまさに目の前で突然ラーメン食ってる拳法ハゲがババーンな画像略でしたねw
や、どうやらこのようなメディア化のストーリー部分では史実の先は描かないことになってるらしいと後から友人から聞きましたが。でもここはレースに飛び出していく瞬間ぐらいまでは描いて欲しかったなーと正直思ったのでした。HAHAHA。結局ミリしらが本作の「お約束」でちょっと笑ってしまったのは
- 冒頭のゲート内でかけっこヨーイドンポーズなこと(すぐ慣れた)
- ダンツが曳いてた「日本に3台しかないコマツの超大型重機用タイヤかな?」
- 唐突のうまぴょい
ぐらいでしたねw 全然おっけー!!!
結論──ウマ娘の勝利
以上、10,000字にわたってお届けしてきたウマも競馬もミリしらのオタクが観た「劇場版ウマ娘」が最高だった話でした。
途中からミリしらまったく関係なかったですよね!!!???
最後に改めてまとめ
- 走る、前に出る、レースという原始的ゆえに直球の肉体言語で描かれる物語はウマや競馬を知らずとも刺さる強さがある
- しかしそれはただ安直にレースをモチーフにしたから得られるものではなく、フジ→ポッケ→タキオンと伝播した衝動の継承など、その肉体言語が持つ特性を完全に把握したうえで練り上げられた脚本・構成のおかげ
- 良質の物語をデザイン面で完全に支える、表現の柱にすらなっているキャラデザの上手さがとにかく絵面の気持ちよさと物語理解の深さを提供している
- 競馬やウマ娘の知識が無くても理解に補助線を引いてくれるレース展開の表現、細やかな解説アナウンスなど、必要十分にして一切手を抜かない「視聴者に理解させようとする意思」もまたとにかく気持ちよい
- その物語とキャラクター、場面場面の感情を、全てのカットに意味があるとすら言える徹底した画作りによって描き出しているアニメーションとしてのレベルの高さは本年最高峰、どころかアニメ史に残していいレベル
- うまぴょいのこと完全に理解した(してない)
- ポッケちゃん……好きになっちゃうじゃん……
- えっちなお姉さん……好きになっちゃうじゃん……
- タキポケ……なるほどそういうのもあるのか……(沼の予感)
また冒頭でも書きましたが、本作は映画館で、それも轟音上映で観たのが本当に大正解でしたね。レース表現を堪能するにはやはり大画面が欲しくなりますし、なにより「彼女たちが本能を叩きつける情熱と衝動の象徴たる芝の地響き」を物理で味わえるのは何物にも替えがたい興奮でした。これこそが何となく本作を劇場化したのではなく、劇場で魅せるための音作りをしてくれた証だと思うのです。
ミリしらに起きたその後
- とりあえずもちろんもう一度見に行った。開幕からガン泣きした
- サントラ速攻買った。"Twinkle Miracle"流れるだけで鼻の奥がツンとする
- ポッケ声優の藤本侑里さんがメインキャラ本作初と知って椅子から転げ落ちた(本作みたいな「叫ぶ演技」がキチンとできる方は上手い証なので……)
- 当時出てたポッケちゃんグッズがちょっと大阪のオバちゃんみたいな虎柄ばかりで少し凹んだ(告白)
- ROAD TO THE TOP観た。なるほど確かに劇場版は「ならでは」の圧倒的品質があったけどこちらも根源的なテーマと描き方はがっつり通じてるんすね。肉体言語!
- げ、ゲームは……その……継承育成モノはちょっとしんどいので……(元シャニPより)
- タキポケ……
以上、7月に書き始めたのに夏コミや諸々があってずっと塩漬けになってしまっていた本記事、10月の再上映記念でようやくの公開となりました。……塩漬け時点で4500字だったのに1万字になったけどな!!!
あとその再上映完全に見逃してたからもう一度頼むぞ!!!!!
※どうやらもう一度再上映されそうです。今度こそ見るぜ……!
※記事中の作中画像は全て公式動画を使用しています。https://movie-umamusume.jp/movie/